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COLUM BY HIROKAZU YOSHIDA.
建築家吉田裕一がお送りする不定期コラムです。


2014.4.2 (tue)
佐村河内守と音楽評論

この問題、一クラシックファンとしては何ともやりきれない話です。
私自身流行に乗って、ついDVD(交響曲ヒロシマ)を買ってしまったし、NHKの特番も興味深く見てしまった口の一人です。
まあ、ことが発覚した後、どうこう言っても仕方がないと言うのが本音ですが・・・
とは言え(今更ながら)以前から映像で見る限りこの男は胡散臭いと思っていたし、交響曲もマーラーやショスターコーヴィッチのパクリを繋ぎ合わせたような気がして、ついていけないなあとは思っていましたが、多くの音楽評論家が絶賛している苦しみや暗さの表現にはそれなりに納得させられたような気がしていたことも事実です。

NHKで放映された石巻の少女との交流ドキュメンタリーは、なんとなく作られた感じ(やらせ?)がしないわけではありませんでしたが、調性音楽特有のいいのか悪いのか分からないピアノ曲は有無を言わさぬ説得力があったような気がします。何より被災地での聴衆と思いが一つになったような空気感が会場を包んでいたことがその要因の一つであることは間違いなく・・・突き詰めれば、音そのものよりも環境やその時の精神状態により感動の度合いが違うということになります・・・

多くの音楽評論家が、問題発覚後はだんまりを決め込んでいるようですが、佐村河内守を「苦しみを表現することができる過去最高の作曲家」と評した許光利氏(肩書は慶応大学教授)もその一人です。
音楽評論家の中では、アウトローで独善的、常日頃から言いたい放題している彼ですが、案の定、大ポカをやらかしたとして多くの批判(ネット上は笑いもの)が集中しています。そんな中、連載している季刊ステレオサウンドの「音楽の誘拐」の中(嘘と言う題名)で自身の心情を淡々と述べています。
それによると、くだんの偽作曲家は10年ぐらい前から接してきて、(耳が聞こえないという理由で)初めはFAX、その後はメールで、自らの作品(楽譜やシンセの曲)についての助言や、自身の置かれた境遇などをやり取りしていたそうで、まさかそれがすべて偽りだったとは思わなかった、と言うような内容です。
自身も被害者の一人と言っているような文章ですが、(矛盾していると思われるが)作品そのものが優れているとは一度も言ったことがない、などと、いい訳に徹しているそぶりも見せます。
ここまで来ると少しあきれ気味ですが、百歩譲れば確かに巧妙にだまされたと言えないことはないし、同じような立場にいる人は少なくないでしょう。
たとえば、初演を指揮した大友直人や各地の公演を指揮していた金聖響、作曲家の三枝成彰、野本由紀夫など、数え上げたらきりがありません。
まあ、作品そのものは専門家である新垣隆が書いたある意味まともなものであるし、この時代に交響曲?を作曲するなんて?という驚きや、嘘で塗り固められたプロフィールにまんまと嵌まってしまったことも関係あるでしょう。
それでも許氏は新垣氏の作品は気に入っているようで、彼の記者会見のあとは自身名で発表した作品を一日中聴いていた、とも書いています。
たぶん作品そのものが悪いわけではない・・・とでも言いたかったのでしょう。

ところで、佐村河内守の同類?の匂いをかぎ分ける能力はずば抜けたものがあると思います。
音楽的土壌に裏打ちされた常識的な論評をする音楽評論家が多い中、許光利氏は自分の気に入ったものはとことん褒めちぎるというどちらかと言うと感情的な評論を得意として、音楽的下地がないこともあり、あくまでも素人として感想を前面に押し出すタイプの評論家です。したがって権威ある専門誌からは完全無視されていて、同じタイプの鈴木淳史と共に寄稿しているHMVの評論家エッセイ「言いたい放題」と前述の季刊ステレオサウンドの「音楽の誘拐」が唯一評論家としてのレヴューと言ってもいいぐらいです。

偽作曲家から、作品の感想を聞きたいと言う初めての電話の時、一度は固辞したらしいが、あなたの読者でファンです・・・・との言葉に、それならば・・と受けてしまったというくだりも吐露しています。ただ、これ、なんとなく不思議です(どうしてかと言うと)かなりコアなクラシック愛好家でなければ許光利氏を知っている人は少ないからです。

それから(新垣氏は当たり前としても)ロック青年であったと思われる佐村河内守は(実は)かなりのクラシック通なのではないのか?と思われます。
そうでなければ、あれほどの作曲指示書(みたいなもの)を書くことは出来ないでしょうし、ましてや許光利氏にターゲット絞ったことも不思議です・・・・まあ、表には出ていないですが、共犯者(黒幕)がいた可能性は否定できないですが・・・
しかし、歌謡曲のような単旋律の曲ならいざ知らず、譜面も書けず、読めず、ましてや一度も聞いたことがない何段にもなる音符で埋め尽くされたスコアのシンフォニーを自分が作曲したなどと、よく言えたものです。そういう意味では耳が聞こえないというカモフラージュは実に役に立ったのだと思われます。

個人的には許光利氏はどちらかと言うと好きな評論家です。
彼の音楽経歴は少年期のレコード鑑賞から始まり、やがて演奏会に接し、できるならもっと良い演奏を聴きたいという欲求から、どんどん深くのめり込んでいくと言う、私自身の体験と重ね合わられるからです。

何より指揮者ヘルベルト・ケーゲルの凄さを見出し、晩年のギュンター・ヴァントを神がかり的と評したことは彼の彗眼であるし、あのチェリビダッケを最高の音楽家と評したことは、朝比奈隆や小澤征爾そしてN響などを公然と批判したことも、失うことが何もない彼の強さの証しであったことの一つでしょう。

フジコ・へミング、大江光(大江健三郎の息子で知的障害者)などを例に挙げるべくもなく、ただ単に音だけで音楽の感動は成り立たないと言うのが現実でしょう。

美しい女性が奏でるヴァイオリンやピアノはやっぱり良く聴こえるし、クライバーのようなかっこいい指揮には誰もが圧倒させられてしまう・・・・と言うのは致し方ないのかもしれません。
そう、音楽は五感で感じるものだからです。
さらに付け加えれば、その背後にある時代や思想、生き様など、いわゆる脳で感じるものもバックボーンとして、感動の成り立ちに大きく寄与していると考えざるを得ません。

佐村河内守(新垣隆)も五線譜に刻まれたものだけでは、後世おそらく忘れ去られるものの一つでしかないと思います。
時代はすでにヒーローを失って久しいからです。
そして、おそらく今後も出てこないでしょう。
それも時代です。


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